憧れは仕事ではなく人にあり!
導くことを天職に
~山田祐子 黄金ストーリー~

これまでの人生を振り返りストーリーを綴っています

Contents

「運動」との出会い

時折考える「自分」について
今の姿からは想像つかないと
100人いたら99人は

えーーーー!!!
本当ですか?写真見せてくださいよ!

って言われます。

ですので、私のことを語るときには
必ず幼少期まで遡らなくてはなりません。

初公開!!幼少期はこのままの太さで大きくなりました

小学校1年生の頃だったと思います。
私はとても消極的で
兄の後ろに隠れているような
ぽっちゃりとした女の子でした(笑)

ピアノも、習字も、勉強も、運動も
全ての才能を兄が持って行ってしまいました(笑)

私は、
「○○ちゃんの妹」と呼ばれていました。
「私」という存在は薄かったですね

近所には同じ年の女の子はいなくて、

学区から遠いため、
放課後は兄の友達と一緒に遊んでもらうか
(大抵、厄介がられます)

自分の部屋で黒板に向かって一人二役(笑)
先生役と生徒役ね。

生徒はいないと寂しいから。
メインは先生を演じる自分でした。

想像力が高いといえば良い言い方ですが、
母は、、、

「この子は少しトラブルがあるのではないか?」

と本気で心配したそうです。

そんな、私を変えた出来事がありました。
それは、「運動」との出会いでした

きかっけは、
中学の部活でバレーボール部に入部したことです。

この時も母は

「あなた、運動部なんて入って大丈夫なの?」

と心配しました(笑)

案の定中1の中間試験はメチャメチャで、
母から退部命令が出ましたが無視しました(笑)

そういえば「バレーボールマガジン」
なるものを毎月買っていた気がします。
杉本選手や中垣内選手が好きでした(笑)

私は女子校でしたので、学校には高校生までいて
部活もコートは違いますが一緒に練習しました。

かっこいいんですよ先輩

私は部活そのものよりも
先輩のかっこよさに惹かれていたのかもしれません。

そんなもんで、バレーボール自体は上手くない(笑)
でも筋トレもしたし、走り込みもしましたよ。

そんな中、
高校2年生の時、一大旋風を巻き起こした
エアロビクスに出会ったのです。

また、このインストラクターがかっこよかった

土日はほとんどクラブに行ってエアロビクス三昧。

そして、気がついたら
ピークの頃から10キロの減量をしていました。

運動が苦手な私は、「運動」そのものよりも
指導をする人に興味があったのかもしれません。

そしてその人が伝えることに魅力を感じ、
いつしかプロになろうと密かに思うようになりました。

転換期

思えば、長く続いた習い事は
エアロビクスだけでした

母は厳しい人でしたので、
そう簡単には習い事を
辞めさせてはくれませんでしたが

そもそも本人がやる気がないのだから
身につくはずがない(笑)

ピアノも習字も水泳も公文も
なんだか全部中途半端。

お母さん、ごめんなさい

エアロビクスのインストラクターに
なろうと思ったのは3回。

1回目は高校3年生、進路を決めるとき

2回目は大学4年生、就職難で就職先を決めなくてはならないとき

3回目は就職して2年目の春、母が病気で倒れたとき

今思えばこの決断は全て
来るべきときに
導かれるように起こったと思っています。

大学の4年間は千葉から東京に通い
多くの人との出会いがありました。

その時出会った人たちは
今でも貴重な存在として
私の側にいてくれます。

社会人としては人材採用担当者として
右も左もわからないまま、
必死に仕事を覚えました。

疲れ果てて、
午後はパソコンの前でうたた寝を
それを遠目で微笑みながら見ている
当時専務の優しいお顔。

恥ずかしかったけれど、
優しさを感じました。

私が就職した時代は超氷河期で、
特に4年生女子は
就職できない人が大勢いましたね。

一流大学でも面接でバンバン落とされ
(因みに私は仏教学を好むフツーの女子大生でした)

人格否定されてるようで、、、

と肩を落とす友人を見ると
とても悲しくなった記憶があります。

そんな私も
本来は東京に通勤するはずでしたが
直近に行ったリストラの影響で
その年の新入社員は

1ヶ月の自宅待機を強いられました。
のほほんとしている私は

これはチャンス!

と母と神戸に旅行に
今となれば良い思い出です。

また、本社の移転が決まり
私は神奈川県に身を置くことになります。
人生初の一人暮らしを経験しました。

決まったからには
しのごの言ってられず
あっという間に引越しをしました。

すぐにスポーツクラブを探して、
そこでもたくさんの人たちと出会い、
終業後はエアロビクスで
一日のストレスを発散していました。

あー、書いていてすごく懐かしくなりました

結局、母が病気になったタイミングで会社を辞め、
3度目の正直でプロの道を歩むことになったのです。

思わずドキッとした
母によく似てる(笑)

人の命の儚さを知ったのは26歳の時でした。
最初は検査入院ということでしたので、

それほど大きなことではないと思っていたのですが
その結果は緊急入院という、
私たち家族にとって
大きな試練となって告げられました。

この時点で、末期ガンでした。

この間の出来事はあまりにも長くなるので
ここには記すことをやめにします。

私は昼間は母に寄り添い、
夕方からエアロビクスの養成科に通う
という生活を7ヶ月続け、
念願のインストラクターになりました。

プロになるには
ギリギリの年齢になっていました。
当然、すぐにデビューしたかったですし、

できれば所属のクラブで
デビューしたかった思いが強く

あの時は世の中が
ホリデーシーズンで世の中が楽しげにしている時も
毎日毎日スタジオに通い練習していましたね。
「夢を掴むために!」青春していました(笑)

母は自分のせいで

娘の人生を変えてしまった

と思っていたようでしたが

私が生き生きと活動する姿をみて、
少し安心したようでした。

と同時に、結婚への準備も着々と進み、
そのことが母のモチベーションを上げたのか
結納の日は病人でないかのように

朗らかに、
お食事も全て食べて
よい会食となりました。

しかしながら、
運命は最期の日を着々と運んできました。

そして、
結婚式の2ヶ月前に
母はこの世に

「ありがとう」

と一言残し旅立って行きました。

母親としての役割をしてあげられない
と悔やむ母でしたが

結婚式のドレスを一緒に選び、
試着した姿をカメラに収め
最後は魂が尽きる瞬間を見せてくれた母。

この経験が今の私を創り上げていることは
間違いのない事実です。

あの時仕事をしていなかったら、
しかもエアロビクスのインストラクターという
人に元気を与える仕事でなかったら

あの悲しみを
乗り越えることができたかどうかはわかりません。

運動が苦手な私が
運動によって救われたひとつのエピソード
です。

そして、28歳になった私は
またまた大きな決断をすることになります。

奮闘期

悲しみは2年。
正直「死」という意味を
初めて知りました。
もう2度と会えないということ。

当たり前は当たり前ではなかったという現実。
口でいうほど簡単ではない想い。

街で母によく似た女性を見かけ、
後を追ってしまうほどに。

でも、

時間というものは
ゆっくりとその悲しみから
私を解放し、
前に進む勇気を与えてくれて。

そして、そう在ることが
母が一番に望むことだと
思えるようになりました。

母のそばにいるために
借りていたアパートを出て、
今住んでいる大宮に引っ越したのは
2000年のこと。

仕事もちょうど
楽しくなってきた頃でしたが、

ふと、

人生を大枠で捉えた時、このままで良いのだろうか?
人生設計をどう考えるのか?

と考えるようになっていました。

母はよく
女性が幸せになるための話をしてくれました。
その中で「産む時期」
という話もよくしてくれました。

特に私たち世代は
キャリアを積む女性が多くなり、
名実ともに男女平等をうたい
女性が活躍する時代でした。

この辺りは選択の自由がありますので、
何が良いということはありません。

ただ、私は「家庭を築く」
という決断をし、

大好きな仕事や仲間と
一旦「さようなら」
をすることになります。

17歳からスポーツクラブに身を置き
エアロビクスに親しんでいたので
自分の意思で辞めたとはいえ、
それは空虚さの極みでした。

それから間もなく、
妊娠がわかり、喜びもつかの間
流産という悲しい現実と対峙することになります。

ここでも私は人に救われることになります。

結婚をすれば、
子供は自然に授かると本気で思っていました。

ところが最初の子供を初期の段階で流産。
相当のダメージでした。
自然淘汰であるとわかってはいても、
残念で仕方がありませんでした。

そんな時

「ああ、お母さんが居れくれたらな。」

とどうしようもない気持ちを
持て余す時間が続きました。

産婦人科は
「お産」=幸せの場所
のイメージがありましたが

あの時ほど辛い場として
写った日はありませんでした。

無事に手術を終え
(半日のあっという間の処置でした)
その後、私の憔悴した姿を見た義母が

「実家に子犬が産まれたから、飼ってみる?」

と提案をしてくださり、
我が家に可愛い子犬がやってきました。

COCOは2016年3月、
13年間私たち家族を見守りながら
病気ひとつせず息を引き取りました。

この義母の一言にどれだけ救われたことか。

そしてCOCOの存在が固まった心を癒し
流産から4ヶ月後に長男を、

それから2年ごとに長女、次女を出産し、
あっという間に3人のママに(笑)

なぜ3人?

それは、

「私がこの世からいなくなっても
3人いればなんとか助け合い、
力を合わせて生きていける!」

この想いだけでした。

そして、毎日、毎日、毎日、、、(笑)

子育てに奮闘する日が続くのです。

仕事復帰

【子育ては自分育て】と言いますが、
本当に毎日毎日色々なことが起こり
そこには「成長」の現場が
用意されていました。

そのことが分かったのは
ほんの少し前のことです。

神様は私をまだまだ
成長させてくれそうです(笑)

今から9年前、
7歳、5歳、2歳の子供を育てながら
毎晩「自分の活かし方」を模索する日が続きました。

エアロビクスのインストラクターを辞めた日から
ずっと胸にしていた言葉。
それは

この仕事は情熱さえあれば、
またいつからでも始められる!

この言葉をプレゼントしてくれた先生は
38歳から指導者としてスタートした方です。

私はこの言葉をことあるごとに思い出し、
「その時」が来るのを待っていました。

「その時」とは、
末っ子が幼稚園に入園するタイミングでした。

「この時間でできる範囲の活動をしよう!」

ただ、どんな活動をするかは
決まっていませんでしたし、
そもそも仕事ができるかどうかなんて
全くわかりませんでした。

当時36歳。

その時、私はからだの不調を抱えており

このまま人生の半分を
このような状態で過ごすのは勿体ない

と考えていました。

そんな時
「本来ある機能と、ひとりひとりの美しさを引き出す」
というキャッチコピーの
骨盤を整えるプログラムに出会いました。

内容については割愛しますが、
ここでの学びや出会いは
私を再び世の中に出るチャンスを
たくさん与えてくれました。

本当に感謝しています

自分の活かし方を模索し、
やりがいを渇望していた私は
まるで情報のシャワーを浴びるように

「学ぶことの本当の楽しさ」
を初めて知ります。

それから7 年間、
主婦であり、母であり、
インストラクターとしての道を歩み

再び
「好き」を仕事にしている自分
を取り戻しました。

もしも今、
何かにチャレンジしたい方や
内なるエネルギーを
持て余している方がいたらお伝えしたい。

「自分を信じて一歩前に!!」

そして

「ひとはいつからでも変われる」

ということを。

子育てと仕事の両立は
女性にとって永遠のテーマです。

一度きりの人生、
指をくわえて待っているだけでは
何も始まらないし、変わりません。

もう、歳だから

子育てに忙しいから

時間がないから

体力的に無理だから、、、

ではなく、
もう一度だけチャレンジして欲しい。

新しいことを始めることは、
とても怖いものです。

ですが、
新しい世界は怖さを超えて
魅力的な世界でもあります。

声を大にして言いたい。

自分を豊かにするのは自分しかいない

ということを。

もう一度だけ、

もう一度だけ

挑戦しよう。

一歩前に!!

宣言

断腸の思いで
好きな仕事を辞めてから約9年

私は家庭を第一にしながら
仕事との両立を図り
じわじわと社会復帰していきました。

資格取得したヨガスタジオで
すぐに契約を交わしたものの
3年間、レギュラークラスを持てなかった
(正確には持たなかった)
のは私くらいだと思います

なぜって
レギュラークラスを持つことに
躊躇があったからです。

子供が小さいうちは
やれ熱を出した
やれ学校行事だと
落ち着かない日々

よく言えば責任感から
反対に臆病だったのかもしれません。

しかし、このままレッスンをしなければ

せっかくの知識や指導スキルも
ダメになってしまう、、、

そう思い、地元のコミュニティセンターで
クラスを開設することにしました。
“とらいあんぐる”の誕生です
(今はTRIANGLEです)

最初はママ友や義理母、
叔母様方を集めて。
懐かしい、、、

そして、ようやく3年後に
銀座にてレギュラークラスを
持てるようになり

それからも地道に
家庭と仕事を両立してきました

私は40歳という年齢
ものすごく意識していました

今では人生100年時代
と言っていますが
私の中では

80歳まで生きれば御の字だろう

そう言った意味では
40歳はちょうど半分
折り返しの年だから意識したのでしょう。

私の意識は外に向いていき
これまで抑えていた行動・感情を
爆発させていきました。

自分の棚おろしをしたり
セミナーや異業種交流会など
外へ外へと向かっていましたね。

すると当然、子供達は
私の後ろ髪を引くように
様々なトラブルが勃発します!

やっぱり、子供3人を育てながら
仕事をするなんて無理なのかもしれない

辞めたほうがいいのかもしれない

そんなことが
頭の中を支配することもあり
一方で

いや、将来は子供達も巣立ち
また自分の時間が持てるのだから
辞めないで細々でも続けよう!!

という相反する気持ちを
繰り返していました。

ある時、
私は子供達3人を目の前にして
宣言しました。

ママは、お母さんとしても
一人の女性としても
両方をやってみせるから

授業参観も行事にもいくし
習い事や送り迎えもする

だから、
ママにも自分を生きることを
許してほしい

まだ小学生だった子供達は
キョトンとしていましたね(笑)

3人の子供を前に
号泣しながら宣言したあの日のことを
今でもはっきりと覚えています

それから約4年間
私はスタジオにて
大勢のお客様と出会い

プログラムを通して
自分の伝えたい想いを重ねながら
充実した日々を過ごしていました

ところが
またまた大きな転機が訪れました

決断

2015年秋、年齢は43歳。
ある一つの疑問が浮かびました。

なんの不満はない
けれどもどこか落ち着かない感覚
これってなんだろう?

これこそ雲を掴むような
不明確極まりない想い

これまでの依存型の働き方から
大きくシフトしたのはこの時期でした。

もともと地元のサークル運営や
ワークショップの開催をしていたので
自分で仕事を作ることには慣れてはいました

けれども知識もなく
ど素人で行なっているので
単発で終わる

そこで以前ご縁のあった方に
会いに行ったのが
「決断」の火種になりました。

なんのご縁か、よく出没しています

ビジネスというものを教えていただき
これまでの常識をことごとく踏み潰し
新たな見方・捉え方を教えてくれました

それは、すこしの猶予もなく(笑)
バサっと
悩もうとしていた私の心を切り離しました

人は窮地に立たされないと
決める事ができないんだな

ということをこの経験を持って知ります。

何が幸せか?
どんな働き方が良いのか?

なんて本当に人それぞれ
だから自分にあった働き方を
見つけられたら幸せだと思っています。

細かいことは
とてもとても長くなるので
ここでは割愛しますが

2015年12月31日
除夜の鐘をつく順番を待つ中
私は独立することを決断しました。

翌年3月、
所属していたスタジオを全て辞め
大宮にスタジオを間借りして
新たにクラスをスタートさせました。

もともと、運動が苦手な私が

自分の負をプラスに変えたい!
変わった先にはきっと
自分を期待できる自分が待っている
変わりたいんだ!!

って
きっとずっと
思っていたんだと思います。

そうしたら、
全く変身した自分が出来上がり
今度はそのことに違和感を覚える
そんな皮肉なことにもなるのですが

今は、どんな自分も自分であり
良くも悪くも全て愛おしき自分である
と思えるようになりました。
(相当に時間はかかっていますがね)

そして、2016年からは
新たに強力な仲間
色彩心理を取り入れて
オリジナルメソッド作りに勤しみ

また、
日本からだワーク®協会の
取り組みによって

付き合う人、活動場所が
どんどん広がっていきました。

からだバー®グランドマスターの皆さん いつも有難うございます

ただ、臆病な私は
馴染みある場所を離れ、
新しいことをすることに抵抗があり、
自分の居場所に違和感を感じながら

それでも前に進まなくては!

という半分強制感の中で
歩みを進めてきました。

だから、
大小の波がいくつも訪れたことは
言うまでもありません。

きっと、端から見たら

大丈夫か?

と思った人もいると思います。

そんな時に支えになったのは
やはり私の宣言を真摯に受けてくれた
子供達

今辞めたら絶対に後悔するよ!
やりたいことができるなんて
そうないことだよ
だから、ママ頑張って

これは長女の言葉です。
彼女もまたバレエと学校を両立し
好きなことに打ち込む立場にあるので
気持ちがわかるんだと思います。

ママが落ち込んでいるときは私が
私が落ち込んでいるときはママが
どっちかがいつも励ましてるよね!!

ママならできるよ
大丈夫だから

親は子供に親にしてもらっているな
と思いますし

家族だけではなく

先生頑張って!
応援してますからね!!

といつも温かく声をかけてくださる
クライアントさんにも
多くのサポートをいただきました。

本当にありがたい

そんなこんなで
やっと、やっと自分を受け入れ
自分の好きなことや得意とすることで

私も誰かの何かの役に立てるんだ!

と言うことに気づき
それをしっかり表現し伝えよう!

と腹を括ったのであります。

で、天職とは?

憧れられる人に

結局のところ

天職とは何なのか?

天職:経路をつけてそこに至らせること

誘導すること 導くこと

導く、、、導く。

そうそう、もうひとつ!!

私のバックグラウンドの要素として
とても特徴的のことがありました!

それは、
仏教精神を基盤とした学校
育ったとういうこと

敬虔な仏教徒ではないけれど
親鸞聖人の教えに感動し
影響を受けています。

例えば、往生するためには
苦行を何日もしないと往生できない
修行というと
そんなイメージがあるかもしれません。

 

けれども浄土真宗の開祖
親鸞は言います。

 

信心すること
ただそこに気持ちをおき

念仏することで
誰もが極楽浄土に行くことができる

 

お釈迦様の慈悲は
何かをしなかればダメ
と言ったことはなく

むしろ救われし者こそが
手厚い救済を受けるべき

私は親鸞聖人の教えを
そんな風に理解しています。

自力でできる人・難しい人
どちらを救済すべきか
やはり自力でできない人こそ
救済される存在

慈悲とは理不尽なようですが
そんな世界なのではないかと思います。

 

結局、私は、
負をエネルギーにして
苦手なことにチャレンジしながら、

偉大な人に出会い、導かれ
今に至ります。

 

好きなことではなく
好きな人、魅力のある人

そう、私は「人」に憧れ
その向こう側にある景色を見たくて
伝える仕事をしています。

伝えるとは何も言葉だけではなく
存在や想い、立ち居振る舞い

これらすべてが魅力となって現れます。

幸運なことに
私の周りにはそれを
体現している人が多かった。

だから、その人に近づき
自分魅力的な人間に
なりたいと思っています。

元気な体づくりのために
トータルケアを伝えたり
心を豊かにしながら、

良好なコミュニケーションを図る
色彩心理も伝えるし

その集大成として
“私らしさ”(あなたらしさ)
も伝えています。

目指したいのは、
自分の中にある平和な世界

毎日毎日いろいろあるけれど
結局のところ、

愛するべきは自分自身であり
どれだけ価値を高められるか
ということ

誰かに承認されることではなく
自分が一番の理解者であり
自分が自分のチアリーダーであること

 

そんなことが難しい方へ

私は私の経験やメソッドを通して

その人が持つ本来の力を引き出し
高い志へと導くこと
を天職としながら、

女性であることに喜びを感じて
生きていきたいと思っています。

 

天職なんておこがましい
と思っていたこれまでの私

天職ってあるんだなって
この機会を通して見つけられました。

このことも与えられたギフト
すべて、すべてギフト

あなたにも
たくさんのギフトを受け取ってほしい

そしてたくさんのギフトが
両手いっぱい、抱えきれないほど
舞い込みますように

2018年12月1日
ボディカラー®スタイリスト
山田 祐子

ライフストーリー
~これまでと、50歳からのわたし~

1話『TRIANGLEの由来』

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※ライフストーリーを音声でも視聴頂けます。

TRIANGLEは、
かつて専業主婦だった頃、
私のフィールドは
「家庭・公園・スーパー」という
3つのエリアで完結していました。

来る日も来る日も
子育てに追われる中で、
『自分は何ができるのか、何がしたいのか』

と自問しつつ、
子供達の成長とともに
その思いを少しずつ温め、

ようやく仕事復帰する時に
「健・美・心」という
女性が自立して
豊かな人生を送るために
必要なエッセンスを掲げて
2009年にスタートしました。

振り返ってみた

あれから14年、
今回50歳の節目にあたって、
もう一度自分の半生を
振り返ってみようと思い
筆をとりました。

正直な気持ち、
自分が50歳という年齢に
達することも、あっという間のようで、

では、実際に
50歳という年齢が
理想に達しているかといえば
そうでもなく、

知らないことばかりだし、
できないことばかり。

でも……
ゆっくり振り返れば
できたことも多くて……

なんだか
不思議な気持ちを抱えながら、
素直な心の内を
書いてみたいと思います。

後に続く誰かのために

3年前にも
自分のストーリーを
書いたことがあります。

あれから3年、
私の人生は大きく変わりました。

環境も仕事の幅も、
そして自分自身が
これからどうしたいのかも……

過去のストーリーはこちらから

この大きな変化の時代に、
自分が歩んできた軌跡を後に続く女性たちや、
娘たちへのメッセージとなれば
これ以上幸せなことはありません。

今回は2019年~2021年の
3年間を記したいと思います。

2話『決断と葛藤と挑戦と』

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ザ・挑戦!!

2019年という年が
どんな年だったのか。

これは私がブログを
毎日つけていることで
足跡を追うことができます。

相変わらず子育てに奮闘しながら
「挑戦」という扉が開いたのは
この時期からでしょうか。

また、
創作意欲に火がついた
時期でもありました。

この年、私は
オリジナルメソッドの開発、
オリジナル音源をリリースしています。

毎日泣いていたんだよ

大きなチャレンジは、2019年7月、
所属している日本からだワーク®協会の
代表になったことでした。

細かな経緯は省きますが、
これがこれまでにない経験の
スタートとなったことは
間違いありません。

代表なんて、
組織のリーダーを体験していない私には、
右も左もわからないまま
馬力だけで頑張っていた私。

本当にこの時は色々と
難しいことが
自分の前に立ちはだかり、

毎日泣きながら
過ごしていたことも
ありましたけれども、

今になればその体験が、
か弱かったメンタリティを逞しくさせ、
貴重な体験と大きな宝を
得たのだと感じています。

苦難の先には必ずギフトがある

何がそんなに困難だったかと言えば、
様々な人との違いの中で
自分の感情をどうやって
コントロールしていくか、

またトップとして
どのような対応で
メンバーをまとめていったら良いのか、
全くわからない状態だったのです。

今になれば、
まとめるなんておこがましい

あの時はただただ
「自分の足を止めない」
と言うことだけを目標にして、

1人歩きをしていたように思います。

なかなか理解されない自分の思いが
なんとも悔しく、
そしてこんな風にしかできない自分が
辛く苦しい日々でもありました。

けれども、
苦難の先には必ずギフトがあって、

私はこの体験の後から
溢れんばかりのギフトを
手にするようになりました。

とにかく2019年は
私にとってびっくりするような出来事や
ギフトがさまざまにやってきた
時代となりました。

3話『ライフシフト~内なる軸に従って生きる~

音声配信はこちら>>
※ライフストーリーを音声でも視聴頂けます。

さすがの運動指導者

2020年、この年は
誰もが生活に大きな影を落とし、
新型コロナウイルスが流行した年でした。

表向きになったのは
2月くらいだったかと記憶しています。

私たちはレッスンの
オンライン化に素早くシフトし、
同時に、私自身の事業も
完全オンラインに方向転換しました。


長いお付き合いのメンバーさん。いつも素敵な時間をありがとう

たまたま私は
色彩心理セッションを
オンラインを使ってやっていたので、

一通りの操作はできたにしても、
運動プログラムを
オンラインで提供すると言うのは
大変至難なことでした。

Wi-Fi環境や住居環境、
配信技術について素人の私たちは、
どうにかしてこの苦難を乗り越えようと
試行錯誤していました。

そんな時、
協会の仲間とともに
1ヶ月間毎日オンラインで
からだバーRを提供し、

画面の向こう側のみなさんに
少しでも運動を継続してもらおうと
試みたことは

間違いなく
今ある姿に直結しています。

今思い返しても
この時の行動力は
かなりスピード感あったし

さすがの運動指導者
でしたよ。


みんながいたから体験できた

一人一人の力がパワーになったオンラインフェス

メッツスタッフの方々へ心からの感謝を

待ってくださった方の存在

奮闘すること数ヶ月。
私を支えてくださったのは、
メンバーさんの存在でした。

もちろんオンラインに切り替えたことで
ご縁がなくなったメンバーさんも
いましたけれど、

何よりも環境が整うまで
待っていてくださり、
試行錯誤する私を
見守ってくださったこと、

本当に感謝しかありませんでした。

時代が大きく変わり、
「できる・できない」ではなく
「やる・やらない」で選択した結果、
決断力も養われたように思います。

経験を糧に超えてく

そしてもう一つ私にとって
大きな、大きな
影響与えている色彩心理。

この年、私はまた
大きな決断をすることになります。

RAYS色彩心理研究所の代表にならないか

というオファーをいただいたのです。


大好きな師匠とプロフェッショナルな皆様。 出会わせていただき、本当にありがとうございます。

色彩心理は私が
生涯をかけて
探求すべき事柄であることを
自覚していたので、

その話を聞いた時は
ほんとに嬉しかったですし、

逆に代表と言う重みを感じながら
それをサポートしてくれる師の存在が
なんとありがたかったことか。

物事が進む時というのは、
本当に「スルスル」と
流れるように進むのだ
ということを経験した出来事でした。

全ての細かな取り決めや
これからスタートするための
地固めを全て整え、

私は日本からだワーク®協会の代表退任し、
RAYS色彩心理研究所の代表として
2021年から活動を
スタートすることになります。


イメージカラーのワインレッド。 ワインレッドの似合う女性でありたい

4話『どうしても起こしたかった奇跡』

音声配信はこちら>>
※ライフストーリーを音声でも視聴頂けます。

仕事と子育ては私のテーマ

2021年、プライベートにおいては
長男が浪人生活をしており、
下の子たちはまだ高校生と中学生。

子育てもやっと終盤戦にきたとはいえ、
まだまだ子育てとの両立の生活です。

コロナの影響は私にとっては
悪いことばかりではありませんでした。

実は昔から自宅で仕事ができないものかと、
ずっと望んでいた環境が整ったのですから。

自宅にいながら好きな仕事ができ、
移動に貴重な時間を
奪われることもなく

子供達とのコミュニケーションを
取る時間も持てるのだから
夢のような環境です。

RAYSカラーメンタリスト7名を輩出

この年、私は
オンラインビジネスを
充実させるため、

前年からの学びや
コンサルティングを通して
様々な学びをしていました。

そして、この年の大きな目標は、
RAYSカラーセラピーの基礎科と応用科を開催し、
RAYSカラーメンタリストを輩出することでした。

RAYSカラーセラピーとは

“自分が救われた「色彩」。
これからの時代に
必ず役に立つと確信する「色彩」を
伝えられることはなんて幸せなことだろう。”

そんな思いも通じてか、
この年7名のカラーメンタリストを輩出し、
最初の一歩を大きく踏み出したのでした。

私がなぜこれほどまでに
「色彩」に魅せられ、
これからの半生をかけても
成し遂げたいと思っているかは、

この後の活動を通して
お伝えできればと思います。

いよいよ明日は最終話。
50歳を目前に届けたいメッセージを
お伝えします。

5話『50歳からの未来』

音声配信はこちら>>
※ライフストーリーを音声でも視聴頂けます。

50歳という年齢は、
これまでの全てを統合して、
大人の分別をつけながら

最も人生を愉しめる
時代ではないかと思っています。

そう思えるのも40代の
『あれこれ』があったから。

良いことばかりじゃないけれど、
全てに意味があると思える私は
幸せだと思います。

これからは、
『女性の自立と活躍』を自らが体現し、
次世代に伝えてくために、

ボディカラーRメソッドを
世の中に発信してきます。

ボディカラー®メソッドとは

そして、どんな時代になっても
強くしなやかに生きることに
貪欲でありたいと思っています。

ありがとう

こうして、
自分の半生を振り返る時間と
「書き残す」ことをする中で、

最後に思うことは、
どんな体験も、どんな時間も、
どんな人にも「ありがとう」
という感謝の気持ち。

これは母が最後に
私たちに残した言葉でもあります。

そして、最後に言いたい。

『これまで生きてくれたありがとう、わたし。
これからはもっともっと素敵な人生を生きようね!』

結局、『自分LOVE』なわたしですが(笑)

皆さま、
これからも変わらず、
お付き合いくださいますよう、
どうぞよろしくお願いします。

40代最後に 自宅書斎より

2022年3月5日
山田祐子

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